• どうしてそんなに怖がるのですか?

    35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」 マルコの福音書4:35-41 皆は自分の恐怖症があるのです。ある方は高所恐怖症です。蜘蛛恐怖症もあります(私もあまり好きじゃない!)。子供たちほとんどは暗さを怖がっているのです。誰でも怖がりを体験したことあります。普通はこういう怖がりが日常生活への障害とはなりませんが、深く感じる時もあります。時々、怖がっても怖がる必要はないです。たとえば、スカイツリーの展望台に行けば、高所恐怖症の方々はやっぱり怖がりますが、怖がる必要はないです。スカイツリーの一番上の展望台でもとても安全だからです。自分の家よりも安全かもしれない。ただ、怖がる理由がある時もある。イエス様の弟子はそういう時を体験していました。 私は船を乗るのは怖がっていないけど、このような嵐が起これば絶対に乗りたくない。だから弟子たちの気持ちがよく分かります。当然じゃないでしょうか?実際に危険だからです。「こんな事態に怖がる理由があるのですか?」と聞いたら、99.9パーセントは「もちろんです!」と答えるでしょう。 イエス様はその0.1%です。 「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。イエス様と乗った弟子でいれば、「本当に分からないのですか?」と考えるでしょう。もう少しと死ぬからです!助けないと必ず沈むからです!当たり前じゃないでしょうか? ほとんどはそう思うかもしれませんが、イエス様はそう思わなかった。弟子は信仰をもっていないと言われちゃった。なぜでしょうか?弟子と私たちが理解しないことが何をイエス様は理解しますか? 聖書的に答えば、二つの点があると思います:神の主権と神の善良です。 神は主権を持つというのは、世の中では神様の許可のない出来事は一つもないです。すべては神の力と御胸に頼ります。詩篇30で書いてあるように: 3 主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。 主は、大水の上にいます。 4 主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。 5 主の声は、杉の木を引き裂く。 まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。 詩篇30:3-5 神の御声はすべての上に権威を持っているのです。嵐の上にも主権である神様です。すべての人間はこの世の中の出来事で驚いても、神様は驚かない。期待しなかった出来事はない。さらに、大変な出来事でも、人間は何もできなくても、神様には扱うことができます。一言で解決できる。イエス様はその証拠です。風と湖もイエス様の言うことを聞きました。これは聖書の神様です。 しかし、神様は主権を持つだけではなく、善良な神様です。善良な神様って、何をやってもその目的と動機は愛だということです。嵐を許可しても、動機は愛です。嵐を静まれば、動機は愛です。この点は一番受け入りにくいと思います。神様はすべての権威と力を持つのを賛成できるかもしれないけど、すべての行いの動機は本当に愛ですか?病気になれば、神様は本当に善良ですか?愛する人は死ぬと神様は本当に善良ですか?首になると神様は善良ですか? 聖書の答えは:はい、それでも善良な神様です。 十字架でこの真理が見えるのです。イエス様には十字架で死ぬことは良いですか?もちろん最低な出来とだった。なのに、その前にはイエス様はどう祈りましたか?「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてかださい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)どうしてこんなことを祈れましたか?怖がっても、どうして「あなたのみこころのように、なさってください。」と祈れましたか?父なる神の善良を信頼したからです。イエス様は十字架の苦しみを体験したくなかったですが、それよりも神様の御胸通りにしたかった。父の御胸は完璧で善良だと分かったからです。さらに、神様の約束も信じたからこそ、死んでも復活の希望を持っていたのです。だから神様はその最低な死を許可しても、動機は愛と分かっていて、その道を神様の御手に任せることができました。 私たちも怖がる時を体験します。「もし」じゃなくて「いつ」ということです。しかし、神様の主権と善良を信じれば、弟子のようにそんなに怖がる必要はありません。全然怖がらないですか?いや、体験すると思います。希望をもっても、信仰をもっても、苦しみは苦しみです。しかし、生活の障害とならないのです。神様の御国を奉仕することまだできます。イエス様の弟子として歩むことまだできます。喜びと平安まだ体験できます。つまり、その恐れは主とならないのです。力強くて善良な神様は主だということを信頼するからです。 仕事がなくなったらどうする?病気になればどうする?ウイルスが広がればどうする?あの方が総理になればどうする?心配するな。神様は主権をもって、善良な神様です。イエス様は蘇らせた主です。死はこの世の一番最低な出来事ですが、神様はその上にも権威を持っています。イエス・キリストの十字架と彼の復活をとおして罪と死は勝利にのまれた。(1コリント15:54)イエス様の弟子であれば(つまり、クリスチャンであれば)、希望を持っています。イエス様はこの真理を理解しましたから、嵐の中でも寝られました。 激しい嵐でも神様の御声はもっと強いです。なので、世の怖がっている声ではなく、神様と彼の御子イエス・キリストの力強い御声を聞いて、信仰を持ちましょう。

  • The Power and Danger of If

    The word “if” can be both powerful and dangerous. I’ve recently been enjoying a Japanese animated movie that explores this idea. The movie, entitled “Fireworks,” is about a boy named Norimichi who accidentally discovers a way to rewind time for the express purpose of taking a different path in a specific situation. In particular, Norimichi likes a girl named Nazuna, but various obstacles keep preventing their time together. After he realizes he can turn back time and get a do-over, he uses this ability to extend his time with Nazuna. His choices, however, are not without consequences. This movie has caused me to reflect a lot on the word, “if.”…