• Dionysius, The 3rd Century Roman Plague, & The Modern Church

    In the 3rd century AD, a horrible plague struck the Roman Empire. According to some counts, 5,000 people a day were dying in Rome. It is not clear what specific disease caused the pandemic, but it is clear it was severe and deadly, lasting not months but years. By the mid-200s AD, when this plague struck, Christianity had grown substantially. In fact, it is largely thanks to Christian accounts of the plague that we know how events unfolded during the pandemic. But these Christian accounts also shed valuable light on how the church responded. Among those who wrote about the plague was a bishop by the name of Dionysius. Here…

  • どうしてそんなに怖がるのですか?

    35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」 マルコの福音書4:35-41 皆は自分の恐怖症があるのです。ある方は高所恐怖症です。蜘蛛恐怖症もあります(私もあまり好きじゃない!)。子供たちほとんどは暗さを怖がっているのです。誰でも怖がりを体験したことあります。普通はこういう怖がりが日常生活への障害とはなりませんが、深く感じる時もあります。時々、怖がっても怖がる必要はないです。たとえば、スカイツリーの展望台に行けば、高所恐怖症の方々はやっぱり怖がりますが、怖がる必要はないです。スカイツリーの一番上の展望台でもとても安全だからです。自分の家よりも安全かもしれない。ただ、怖がる理由がある時もある。イエス様の弟子はそういう時を体験していました。 私は船を乗るのは怖がっていないけど、このような嵐が起これば絶対に乗りたくない。だから弟子たちの気持ちがよく分かります。当然じゃないでしょうか?実際に危険だからです。「こんな事態に怖がる理由があるのですか?」と聞いたら、99.9パーセントは「もちろんです!」と答えるでしょう。 イエス様はその0.1%です。 「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。イエス様と乗った弟子でいれば、「本当に分からないのですか?」と考えるでしょう。もう少しと死ぬからです!助けないと必ず沈むからです!当たり前じゃないでしょうか? ほとんどはそう思うかもしれませんが、イエス様はそう思わなかった。弟子は信仰をもっていないと言われちゃった。なぜでしょうか?弟子と私たちが理解しないことが何をイエス様は理解しますか? 聖書的に答えば、二つの点があると思います:神の主権と神の善良です。 神は主権を持つというのは、世の中では神様の許可のない出来事は一つもないです。すべては神の力と御胸に頼ります。詩篇30で書いてあるように: 3 主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。 主は、大水の上にいます。 4 主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。 5 主の声は、杉の木を引き裂く。 まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。 詩篇30:3-5 神の御声はすべての上に権威を持っているのです。嵐の上にも主権である神様です。すべての人間はこの世の中の出来事で驚いても、神様は驚かない。期待しなかった出来事はない。さらに、大変な出来事でも、人間は何もできなくても、神様には扱うことができます。一言で解決できる。イエス様はその証拠です。風と湖もイエス様の言うことを聞きました。これは聖書の神様です。 しかし、神様は主権を持つだけではなく、善良な神様です。善良な神様って、何をやってもその目的と動機は愛だということです。嵐を許可しても、動機は愛です。嵐を静まれば、動機は愛です。この点は一番受け入りにくいと思います。神様はすべての権威と力を持つのを賛成できるかもしれないけど、すべての行いの動機は本当に愛ですか?病気になれば、神様は本当に善良ですか?愛する人は死ぬと神様は本当に善良ですか?首になると神様は善良ですか? 聖書の答えは:はい、それでも善良な神様です。 十字架でこの真理が見えるのです。イエス様には十字架で死ぬことは良いですか?もちろん最低な出来とだった。なのに、その前にはイエス様はどう祈りましたか?「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてかださい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)どうしてこんなことを祈れましたか?怖がっても、どうして「あなたのみこころのように、なさってください。」と祈れましたか?父なる神の善良を信頼したからです。イエス様は十字架の苦しみを体験したくなかったですが、それよりも神様の御胸通りにしたかった。父の御胸は完璧で善良だと分かったからです。さらに、神様の約束も信じたからこそ、死んでも復活の希望を持っていたのです。だから神様はその最低な死を許可しても、動機は愛と分かっていて、その道を神様の御手に任せることができました。 私たちも怖がる時を体験します。「もし」じゃなくて「いつ」ということです。しかし、神様の主権と善良を信じれば、弟子のようにそんなに怖がる必要はありません。全然怖がらないですか?いや、体験すると思います。希望をもっても、信仰をもっても、苦しみは苦しみです。しかし、生活の障害とならないのです。神様の御国を奉仕することまだできます。イエス様の弟子として歩むことまだできます。喜びと平安まだ体験できます。つまり、その恐れは主とならないのです。力強くて善良な神様は主だということを信頼するからです。 仕事がなくなったらどうする?病気になればどうする?ウイルスが広がればどうする?あの方が総理になればどうする?心配するな。神様は主権をもって、善良な神様です。イエス様は蘇らせた主です。死はこの世の一番最低な出来事ですが、神様はその上にも権威を持っています。イエス・キリストの十字架と彼の復活をとおして罪と死は勝利にのまれた。(1コリント15:54)イエス様の弟子であれば(つまり、クリスチャンであれば)、希望を持っています。イエス様はこの真理を理解しましたから、嵐の中でも寝られました。 激しい嵐でも神様の御声はもっと強いです。なので、世の怖がっている声ではなく、神様と彼の御子イエス・キリストの力強い御声を聞いて、信仰を持ちましょう。

  • Attacking Kingdom Work: 3 Steps Of Opposition

    Criticism and opposition are to Kingdom work what death and taxes are to life: a certainty. If you’re producing fruit for God’s kingdom, you can be sure that the enemy will not be happy, and he will use others to attack you. These attacks can be a destabilizing force, throwing off your focus and keeping you from being as fruitful as you wish to be. This is especially the case when you do not anticipate it and prepare for it. Thankfully, scripture gives us some great examples to learn from, and for this particular challenge, Nehemiah is among the best. Nehemiah was the cupbearer of King Artaxerxes of the Persian…

  • Fear & Talents

    One aspect that has long stood out to me regarding the parable of the talents in Matthew 25 is the motivation for the wicked servant. What drove him to literally bury his portion instead of using it to produce more for his master? What caused him to sit on his hands until his master returned? Quite simply: fear. He was afraid of his master. He was afraid that he might use the portion unwisely, and end up squandering an incredible opportunity. He was so afraid of what would happen if he took any risks, that he did the one thing his master apparently disliked the most – nothing. Fear is…